いすきですのブログ

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6月26日の詩 現代詩2.0

2と2.0では色々なところに趣の違いがあるように見える。たとえば現代詩2というならそれはそれで理解できるが、現代詩2.0といわれると、現代詩1.1や現代詩3.14...といったものを想定したくなる。この意味で2.0とは曖昧で不確定な表現だが、詩というものの定義の寛容さを名が示していると解釈できるかもしれない。

それにしても私達が少数を使う場合、実はそのほとんどが、人間が世界を測る曖昧さを言い含んでいることに、改めて気がつく。1つ2つというような整数を「数える量」とも呼んだのとは対照的に、このような量を「測る量」と呼んだのであった。たとえば牛乳の量や濃度はいずれも測る量であり、かつ同時にこれは人間の測定の不確かさを認めた表現になっている。2.0とは断じて2.000...のゼロをケチって書いたものなどではなく、むしろ大抵の場合の2.0とは1.95から2.04までを誤差の範囲内として同一視したものであるから、これは理想化された、偶像的な概念と言っても良いかもしれない。

これに対して2はどうかと言われると、一部例外はあるが、リンゴが2個やカラスが2羽と言った場合の2は幾分絶対的なものであり、曖昧さを持たない。2,3個(にさんこ)という言い回しがあるのは、まさにそのためであろう。曖昧さが数字では表現され得ない分だけ、言語側で対応しなければならなくなっているのだ。私にとって現代詩2.0とは、このようなことを漠然と考えさせるいいきっかけになったので、感謝しようと思う。

さて、私は現代詩2.0に対する非常に簡単な感想を以上のように申し述べて、これらを詩だと宣言することにしよう。現代詩2.0は、私からするとまさに「名の下に」この詩を許容しなければならなくなる。一方で、詩に関する論述の全体が再び詩になるという構造は、実はかなり古典的でもある。

だから、少なくともこの詩に関していうと、これは現代詩2.0でありながらにして、同時に現代詩1.0(とでも言いたくなるようなもの)でもある詩の、ひとつの例示になっているのだ。そして私はこの調子で、実は現代詩2.0であるような全ての詩が、同時に現代詩1.0でもあるものと予想している。これは現代詩2.0が現代詩1.0に完全に内包されていることを意味するが、さらに言うなら、私はそれらが集合として互いに完全に等しいものだと予想している。

現代詩2.0に対する私の直感は、その表現の真意が2.0という曖昧さを持つ数字に託されていると解釈するものであって、その真意とは詩そのものの変化というよりもむしろ読み手側の変化(=読み手側の詩に対する「測定」の曖昧さの時代による変化)が詩の変革の核であるとする主張である。