いすきですのブログ

いすきですのブログです。詩人になったので詩を書くブログを作りました。よろしくお願いします。メールアドレス→isuki.poem@gmail.com Twitter→@isuki_poem note→https://note.mu/isukidesu

7月10日の詩 春の落ち葉

寝飽きた春の落ち葉の吹かれてさよならの声も届かない。

幾度となく踏みしめられてばらばらに、飛沫になった秋冬の、小さな名残の吹かれてゆけば、さよなら、さよなら、

さよならの練習は役に立たない、風がぐんと強く吹いて、彼も言葉も次々去って、ここにいる自分ひとりのさよなら。

7月7日の詩

どうしても行かねばならないそこに

コーヒーを2杯飲んで夜に備えたが眠ってしまった

目を覚ますと列車はそこを過ぎていた

これは道中オーロラの中を通る

それを撮るように頼まれていた

が、それは帰りがけにやればいい

光が一つもなくて

これからもうカメラは使えない

自分だけが頼りだ

7月6日の詩

とてもお腹が空いたので、虫さん以外なら何でもいいので、なにか食べたいと思うのですが、このタイミングで家の中にはなんにもなく、出かけるのもめんどくさく、けど昼にはまともな服を着ておでかけしなければならず、またクリーニングにも行かなければならない。

7月4日の詩 日記詩

中島義道先生の『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』という本が印象的だった。「あなたが死んだら悲しい。だから死なないで欲しい」と精一杯に訴える哲学者の姿は、人の無力を表してるようだった。けれどもその祈りの何と純粋なことだ。

7月3日の詩 ふうせん

手を離れた風船が

空に逆さまに落ちていく

はずみをつけて

風に吹かれて

くるくる回ってどこへ行く?

かなとこ雲に頭をぶつけ

目には見えない波に乗って

世界を遥かに見下ろせば

青空の果てに滞る

あの風船はあの日の風船

そこからならば見えるだろうか?

手を離して悔しがる

小さな私の泣き顔が

 

 

光を追いかけてもし追い越すことができたならまだ昔の僕を空の彼方から見てみたいと思うものです。

7月1日の詩 雨の中の会話

「まあ、良いとは言えないね。だが悪くもない。」

(立ち上がり、イスが床に擦れる音がする)

「……それにしても、自らの問いに対して、質問者もまた回答を用意しておくものだと私は思うがね。」

(一呼吸の間がある)

「あんたこそどうなんだ? 」

(この質問は無視される)

「……雨傘を。」

6月30日の詩 夏

土砂降りのなか傘もささずにコンビニまで走って行ってずぶ濡れの人間。

電気の理論と皇帝陛下。

隣人。

また晴耕雨読

革の財布に水玉模様をあしらって今日は新たな日曜日。

時と梅雨。

雨また雨の日に愛せと言って夏は完成する。

愛せと言わず未完のままにしておく夏。

6月29日の詩 恋と目線

物言う目線が教室中にしっとり静かに張り巡らされる。それに気づかぬふりをするけど、いつまでもつか分からない。誰が誰を見てるだろう? 終盤に向けて走り始めるチェスのように遠慮のないまま駆け巡り、音をたてずにぶつかる目。独り言はチェックと同じ重さを持つ。これの全ては、君のせいだ。

6月28日の詩

響き渡る石の感覚。

拳を肩で受け止めて、

すぐに脇腹めがけてやりかえす。

奴は肘で受け止める。

骨の直撃は痛むが、

ここで怯めば危ういだろう。

お互い同じことだ。

退くという選択は無い。

だが双方がその決意を固めたことで、ここに確かに、最後に立つ者はどちらか一人でなければならなくなった。

これは矛盾だろう。

矛盾を解決するのは暴力だ。

 

はじめからこうするつもりではなかった。

だが理由も忘れた理由によってこれはどうしようもなく開始された。

無論、理由は今となっては不要だ。

ただ、倒せばいい。

また、倒さねばならない。

 

体中が痛むが、それは相手も同じことだった。

こいつとはこれが最初ではない。

これは何度も繰り返されてきたものごとの一環に過ぎない。

……ああ、暴力は矛盾を解決しなかった。

最後にはもう、

互いが立ってはいられなかったのだから。

それでもまだ、やらねばならない。

この憎しみに終わりはない。

怒りも。

 

 

 

6月26日の詩 現代詩2.0

2と2.0では色々なところに趣の違いがあるように見える。たとえば現代詩2というならそれはそれで理解できるが、現代詩2.0といわれると、現代詩1.1や現代詩3.14...といったものを想定したくなる。この意味で2.0とは曖昧で不確定な表現だが、詩というものの定義の寛容さを名が示していると解釈できるかもしれない。

それにしても私達が少数を使う場合、実はそのほとんどが、人間が世界を測る曖昧さを言い含んでいることに、改めて気がつく。1つ2つというような整数を「数える量」とも呼んだのとは対照的に、このような量を「測る量」と呼んだのであった。たとえば牛乳の量や濃度はいずれも測る量であり、かつ同時にこれは人間の測定の不確かさを認めた表現になっている。2.0とは断じて2.000...のゼロをケチって書いたものなどではなく、むしろ大抵の場合の2.0とは1.95から2.04までを誤差の範囲内として同一視したものであるから、これは理想化された、偶像的な概念と言っても良いかもしれない。

これに対して2はどうかと言われると、一部例外はあるが、リンゴが2個やカラスが2羽と言った場合の2は幾分絶対的なものであり、曖昧さを持たない。2,3個(にさんこ)という言い回しがあるのは、まさにそのためであろう。曖昧さが数字では表現され得ない分だけ、言語側で対応しなければならなくなっているのだ。私にとって現代詩2.0とは、このようなことを漠然と考えさせるいいきっかけになったので、感謝しようと思う。

さて、私は現代詩2.0に対する非常に簡単な感想を以上のように申し述べて、これらを詩だと宣言することにしよう。現代詩2.0は、私からするとまさに「名の下に」この詩を許容しなければならなくなる。一方で、詩に関する論述の全体が再び詩になるという構造は、実はかなり古典的でもある。

だから、少なくともこの詩に関していうと、これは現代詩2.0でありながらにして、同時に現代詩1.0(とでも言いたくなるようなもの)でもある詩の、ひとつの例示になっているのだ。そして私はこの調子で、実は現代詩2.0であるような全ての詩が、同時に現代詩1.0でもあるものと予想している。これは現代詩2.0が現代詩1.0に完全に内包されていることを意味するが、さらに言うなら、私はそれらが集合として互いに完全に等しいものだと予想している。

現代詩2.0に対する私の直感は、その表現の真意が2.0という曖昧さを持つ数字に託されていると解釈するものであって、その真意とは詩そのものの変化というよりもむしろ読み手側の変化(=読み手側の詩に対する「測定」の曖昧さの時代による変化)が詩の変革の核であるとする主張である。

 

6月25日の詩 一多Ψ制

一多Ψ制(いったぷさいせい)…1に対してたくさんのΨを用意して対抗する制度。Ψは多ければ多いほど良いが、コストカットのためにたった2つか、せいぜい3つのΨしか用意されていない企業も多い。(例外的に、味の素や任天堂が10を超えるΨを保有していることを示唆する研究が複数報告されている)

Ψ数理論はひとりの人間にもその計算を適用できるが、その際は一般的で直感的な量にならず、もはや人に対しては意味がない指標と考えられていた。しかし、ワイルド・ジョーンズによってΨ数をあらゆる物理的実態に計算可能であることが示され、状況は一変する。

さらに近年、ある生物学者の発見から人間のΨ数が25-9次元宇宙から4次元宇宙への射影写像の種数と近似的な関係にあることを発見した。これは倫理的にあまりにも重大な発見だったため発見そのものが秘匿されたが、以降も極秘裏に研究が進められた。マイナンバー制度にもΨ数理論が応用されている。

より重大な事実として、立川・藤原・アーフェンによって発見されたTAFの定理がある。これはΨ数における弱い運命論を導き、Ψ数理論に携わる全ての政令下研究員を驚嘆させた。この定理は、任意のΨ計算可能な集合に対して、少なくとも一つはその集合のΨ数を変更しない非自明な変換があることを主張する。

Ψはダークマターを除くあらゆる物理的実態に対して計算可能であるために、要するにこの定理は、おおざっぱには「想像できるあらゆるものの集まりに対して、その集合に特有の量と変換が存在する」ことを意味する。TAFの定理によって、政府は次第にΨ数理論を秘匿することができなくなっていった。

TAFの定理を人間全体の集合に適用することで、人間に対する運命論の存在まで証明されるからであり、それは先の生物学者の発見に他ならないからである。

事実として、ある条件下では強い運命論が証明されるとゲーリンが発表した。これは弱い運命論の成立に加え、各集合における非自明な変換があらゆる集合に対してグローバルに定義されることを主張する。すなわち完全な決定論の成立であり、ビッグバンからすべてが仕組まれていたことを意味する。

ところが強い運命論はΨ数の計算不可能性を導出するため、これは明らかに矛盾である。ゲーリンの主張の真意は、従って、「ある条件」が同時には成立しないということであった。結論から言えば、ゲーリンによって単一宇宙理論が棄却され、宇宙が複数あることが示された。

この驚異的な結論から、ダークマターにΨ数が計算できなかった理由を、その発生源が宇宙間の相互作用であると理解する理論が生まれた。これはハーヴェイ・サチオカらによって定式化され、有限宇宙全体に及ぶ弱い運命論が再び証明された。この結果は直ちに自然数無限個連結宇宙モデルに適用された。

これらの結論は実数無限個連結宇宙モデルには本質的に適用できないことが知られているが、他のあらゆる方法で否定的にも肯定的にも証明されておらず、実数無限宇宙が弱い運命論を持つかどうかは未解決である。

実数無限宇宙が問題になる理由は、その多さによる。ハーヴェイとサチオカは自然数無限連結宇宙に弱い運命論を導入したが、単一宇宙でここから強い運命論が導かれたのと同様に、自然数無限連結宇宙も強い運命論を持つことが示せるのだ。これは再び矛盾するから、宇宙は自然数無限個では済まないのだ。

6月22日の詩 帰り道の僕

帰り道の荷物の重さをまだ覚えている。

それか、少なくとも理解はしている。

重く憂鬱な足取りの反対は、馬鹿みたいな浮かれた鮮明な虹色の夕焼け、どうしようもない虚脱感と疲労ただ帰るだけのほぼ無心の帰り道の荷物の重さやはり憂鬱な足取り、交互に足を出すだけ、誰のことも考え(たく)ない。

6月21日の詩 ωの闘争

林檎 沈黙 ωの闘争

果ての果ての果ての果て そのまた果ての向こう側 

ifのifのifのif その終わりないifの夢 幻の連鎖 

一つの林檎 微笑と沈黙 終わりのこない永久の時のその果てに 一つの林檎

音のない世界の沈黙 光のない世界の陰 矛盾の果て 答えのない問と苦悩 終わりのない破戒の列 沈黙